【127】 
2007 京都 祇園祭  −都大路に響く祇園囃子−     2007.07.16-17

八坂神社の四条通の西楼門は、修理工
事中で、白いカバーで覆われていた。 
今年(19年)の秋の完成予定とか。




 台風4号もさしたる被害ももたらさないままに本州の南海上を東へ抜けていった16日、友人が祇園祭の見物がてら、久しぶりに一席設けてくれるというので、京都へ向かった。
 午後4時前に着き、友人宅(三条大橋のたもとで旅館をやっている)へ車を入れて、まずは八坂神社にお参りに出かけた。

  





 祇園祭は、八坂神社のお祭りである。7月1日の吉符入り(打ち合わせ)から始まり、くじ取り式、お迎え提灯などを経て、16日の宵山、17日の山鉾巡行でクライマックスを迎え、種々のあと祭りを繰り返したのち、31日に八坂神社境内の疫神社にて夏越祭を執り行って納めるという、1ヶ月間に及ぶ祭礼である。


← 祭りの期間中、境内では神輿洗い式をはじめ、さまざまな行事が行われている。



 夕食は「たん熊」へ…。
午後5時と、少し早い時間だけれど、食事のあと、宵山見物に繰り出す予定だ。
たん熊

鱧の落とし

卵とじ



宵 山

 
 辺りがようやく夕闇に包まれるころ、それぞれの山鉾の駒方提灯に灯が入り、町に祇園囃しが流れ出す。


                   
第一番、「長刀鉾」 →


 祇園祭の起源は、遠く800年代の昔、平安時代の初期に、京の都を初め全国に疫病が流行した際、疫病退散を祈願して始められた「祇園御霊会」であるという。
 一番鉾に、毎年、この「長刀鉾」が巡行の先頭を行くのは、悪霊を切り従えて退散させようという願いが込められているのだろうか。


 写真では全く伝わらないのが残念だけれど、祇園祭は目で見て楽しみ、耳で聴いて楽しむ祭りである。
 お囃子の鉦、太鼓、笛…、この祭りに集う人々の思いがひとつになって、宵の都大路を流れていく。













  大通りだけでなく、細い路地を曲がっても
 「山」に出くわす。


 




← お囃子の一番賑やかな鉾がやってきた。
「月鉾」だそうです。



「鉾と山」→
 http://www.kyokanko.or.jp/3dai/gion_2.html 参照
 
 
  こちらでは、「月鉾」のオリジ
  ナルグッズを販売している。→

 


 「オリジナルグッズって何だ?」と思い覗き込んでみると、「ちまき」って書いてある。
 「お腹も空いてないし、いらないなぁ」と言ったら、案内役の明子(めいこ)さんに、「ちまきは食べるものやなくて、疫病除けのために飾るお正月の「お飾り」みたいなものどすえ」と説明を受けた。
 三条大橋近くにある旅館の娘で、今は女将に納まっている明子さんは、章くんの京都時代の盟友である。金がなくなって腹が減ると、彼女の家に上がりこんで食いつながせてもらっていたのだから、命の恩人でもある。
  
 曳き子と呼ばれる30〜40人ほどの人たちが引く山鉾が、にぎやかに通り過ぎていく。各町内の子どもたちも、おそろいの浴衣で 粽(ちまき)・御札・お守りを販売するお手伝いをしている。町内が…市民が…、一体となって真夏の古都のページェントを楽しんでいるようだ。
 今年は台風4号の影響が懸念され、前日から、提灯が倒れないようにロープで四方をくくる作業などもしたそうである。

 



 コンチキチン〜の祇園囃子に送られて、三条河原を歩いてみた。
 川面に灯りを映す川べりの店は増えたようだけれど、行き交う人々の群れも、川端に座る二人の影も、ン十年前と変わらぬ夏の風情であった。


← 川床や屋台店の並ぶ三条〜四条河原





 
 
 
 
山鉾巡行

  
 明けて17日、今や祇園祭のクライマックスとなった山鉾巡行が行われる。
 巡行は、午前9時、四条烏丸から長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に、河原町通を経て御池通へ向い、午前中にコースを一巡する。

 山鉾の順番は、室町時代から競争を避けるために「くじ取り式」で決められる。ただし、先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目(さきの巡行の最後)船鉾などは「くじ取らず」と言われて、順序があらかじめ決まっている。
 途中、「注連縄(しめなわ)切り」「くじ改め」など古式豊かな仕儀や、豪快な「辻廻し」などで見せ場を作り、豪華絢爛な一大ページェントが繰り広げられていく。
 章くんは、保険会社の4階に席を取ってもらい、行列を待った。



 第一番の「長刀鉾」がやってきた。この鉾の屋根の上に据えられた長刀の長さはハンパではない。


  「長刀鉾」に乗る稚児は、生き
  稚児である。(他の鉾の稚児は、
  全て人形)         →



 「長刀鉾」の稚児は、先頭を行く鉾としての最も重要な儀式
「注連縄(しめなわ)切り」を行い、結界を破って後に続く山鉾の進行を促す。


 
稚児は、祇園祭の生神(いきがみ)様。1ヶ月以上前の6月8日、町内の10歳前後の子どもの中から、2名の禿(かむろ)とともに選ばれるのだが、それから目白押しの日程をこなさなければならず、八坂神社参拝・市長表敬訪問・記者会見・稚児舞の練習・神事などなど、なかなか大変な役割である。
 
例えば、6月18日に行われた「社参の儀」の仕様を見ると、『稚児が大名(正五位少将十万石)の位を授かる大切な日です。白馬にまたがり大勢のお供を従え、八坂神社へ向かいます。お供は武士の家来役なので、全員裃姿で参列します。稚児は蝶蜻蛉の冠と金烏帽子を身に付け、神の使いへとその姿をかえていきます。禿もこの日は侍烏帽子の冠を付けます。稚児を護る武士の役目を担っているのです。この日から山鉾巡行のお務めを果たすまで稚児は神の使いとされ、地面に足をつける事も許されません。馬上の稚児はそのまま稚児家へと進み、長刀鉾町理事長から祝いの言葉を頂いた後、稚児家主催の「直会」が行われます。稚児達は厄除けの稚児餅を頂きます。』とある。まさに、祭りのシンボル的な存在なのだ。


← 子どもたちに引かれていく花山


 祇園祭の本来の神社行事は、山鉾巡行で浄められた四条寺町にある御旅所へ、八坂神社から「東御座(ひがしござ)」「中御座(なかござ)」「西御座(にしござ)」の神輿3基を召した神々が、各氏子町を通って渡る「神幸祭」である。
 神社の神輿とともに、各町内からもさまざまに飾り立てられた花みこしや花山が出る。
 八坂神社の神々は、この夜から7日間 町中に滞在される。その間は八坂神社はお留守だから、参拝しても無駄である。24日の夕方に御旅所から八坂神社に戻られる「還幸祭」が行われ、 往路とは違った道を練り歩き、夜12時近くに八坂神社本殿にお戻りになられる。
 大神輿は一基3トンもあり、約300人が交代で担ぐ。



    
山鉾について、章くんたちも
     四条→河原町→お池通りへと歩いた。 → 


 



 32基の山鉾は、いずれも豪華絢爛…。28基が重要文化財だとか。


 見所の一つは辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が無理なため路面に青竹を敷き水をかけ滑らして向きを90度変える。


 
一旦止まった鉾は、音頭取りの掛け声「エンヤラヤー」で再び動き出します。     →





 山鉾の周囲の刺繍を「胴掛け」、後ろにたらしたものを「見返り」と言うが、その美しさ・豪華さも見もののひとつである。


← 菊水鉾の見送りは
 クジャクだ。






 ひとつの鉾には、稚児と禿、その世話方、10数人の囃し方、2〜4人の屋根方、2人の音頭取りらが乗っている。その総
重量は10数トン…、それを棟梁の指揮のもと、車方などの
応援団とともに、30〜40人の曳き手が引っ張り、踊り子
たちが後ろを付いて歩く。


 屋根に鎌を上げたり羽を広げたりして動くカマキリが乗せられた「蟷螂山」は子どもたちの人気の鉾だし、
棒振り囃子を踊
る子供たちの姿も愛らしい。


 山鉾巡行が終わると、あとは24日に花傘の10余基が練り出し、京都花街のきれいどころの踊り、鷺舞、六斎念仏、子供御輿、祇園ばやし、稚児など総勢千人の行列が続く「花笠おどり」などを経て、31日の八坂神社境内での疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)で、全ての行事を終える。
 
 

貴 船


 
午後1時、昼食に貴船茶屋の「右源太」へ。一帯は、貴船川の流れに沿って、20軒ほどの店が川面に床を並べている。
 
座敷の下を川が流れているというだけで、いかにも涼しい。
 川床は、鴨川では「かわゆか」、貴船・高雄では「かわどこ」と読むのが一般的とされる。





← 料理は季節感のある食
 材が吟味されている。


 
 

 食事中の方をパチリ…→


 奈良期に造営されたと伝えられる貴船神社は、雨水を司る水神を祀っているが、縁結びの神様もおわすところとしても知られ、和泉式部も恋の歌を奉納祈願している。
 京都市内よりも、4〜5℃は涼しいといわれ、この日も訪れる客は多かった。
 あたりは深山幽谷のたたずまい…、今度は夜に来ることにしよう。
                                
  物見遊山トッブへ